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日本医科大学医学部長 小澤一史先生

日本医科大学医学部長 小澤一史先生
進路の決め方

Q1.先生が医師を目指されたきっかけなどを教えて頂けますでしょうか。

私の実家は祖父の代から続く前橋郊外の医院で、祖父は内科医、父は産婦人科医でした。現在は末弟が後を継いでいます。私自身は、こういう家系の長男ではありましたが、医学よりも法律に興味があり、高校2年生までは「東京大学文科1類」が目標で、将来は六法全書を丸暗記した冷静な裁判官になるのが夢でした。
高等学校の2年生のころ、日本医科大学病理学の金子仁教授(故人)が書かれた「病理夜話」という本に出会い、「病理は医学の世界の最高裁判所である」という文章に大きな魅力を感じました。環境が医系ということもありましたが、自分自身で納得して医学部へ行って「医学の世界の最高裁判所を経験してみたい」という思いになったのが医師を目指した大きなモチーフといえます。
医者の家系に産まれ、医師になるのが自然という考え方に疑問もあり、その道に進むための自分としての大義名分がほしかったのだろうなと思います。なお、数学が好きだったので、受験にあたっては方向転換がそれほど大きな足枷にはならなかったと記憶しています。

Q2.先生は前橋高校から東京慈恵会医科大学へ進学されましたが、進路を決める際にお悩みはありましたでしょうか。

昭和52年に前橋高校を卒業し、受験となりますが、受験の時には明確な理由、決心を持って医学部進学を目指していたので、最終的な進路選択そのものには全く悩みはありませんでした。当時は国立大学が一期校と二期校に分かれており、その制度が間もなくなくなり、新しい入試制度の共通一次試験が始まるという時期で、それに巻き込まれる前に大学に入学しておかなければならないという強迫感がありました。
現役の際には、国立、私立の医学部を受験しましたが、全滅でした。浪人して上京し、予備校で学びながら、翌年が国立大学の一期校と二期校の制度の最終年度となったところで、冷静に自分の学力と希望、そのギャップ等を考えました。
もう、浪人からは逃れたい気持ちも強かったと思います。冷静には考えましたが、希望校を変えることには苦悩を感じました。それで、自分の学力(合格可能性)などから、当時、国立一期校と同じ日に入試を行っていた慈恵会を国立一期校受験の代わりに、希望校として選択しました。
当時は日本医大、慈恵医大などは学費が安く60~90万円くらいだったと思います。それでも国公立に比べれば高かったことは事実ですので、親への負担は少し悩みました。その他は、日本医大、東京医大、昭和大学、東邦大学等を受験し、最終的に縁のあった慈恵会を選びました。日本医大は2年目も縁がありませんでした。ちなみに、それから25年近くたって日本医大教授に選出された時に、「入試で受からなかったことは問題にならないだろうか」と心配した記憶があります(笑)。人生の縁は、全く判らず、不思議なものです。そういう経験から「今、自分のいる場を人生の第一志望として捉え、頑張ろう」と学生には常に話をしています。

日本医科大学医学部長 小澤一史先生

Q3.大学ご卒業後から現在に至るまでに、仕事を選択する際、どのようにお決めになってきましたでしょうか。

当時は教養課程2年後、大学3年生から基礎医学の学びが始まりました。「医学の世界の最高裁判所」である病理学の世界に大きな夢を持ちながら、解剖学の学習に入りました。当時、慈恵医大の解剖学教室の教授であった吉村不二夫先生(故人)はいかにも学者であり、妥協を許さない研究の鬼みたいな先生で、教育は研究のついでにやっているというような方でした(笑)。その吉村先生の弟子に、屋代隆先生(現 自治医科大学解剖学主任教授)という慈恵医大の先輩がおり、「小澤君は前橋出身だろう。僕は栃木県出身で、同じ北関東組だね」と声をかけられました。
そして、屋代先生の研究の手伝いをしないかというお誘いが、結局、現在に繋がっています。吉村教授も大変に厳格な教授でしたが、プライベートではクラシック音楽をこよなく愛し、大学のオーケストラ部でチェロを弾いていた私とは話も気も合い、大変にかわいがって頂きました。病理学も大変に面白い学問で、「最高裁判所」とは思いましたが、それ以外の医学も大変に興味深く、また臨床実習が始まって、神経学に興味を持ち、神経内科、脳神経外科などに興味を持ちました。
しかし、地味ながらも、また経済的には恵まれないであろうけれども、実直に研究し、その結果に一喜一憂している基礎医学、解剖学の先輩達の素朴な姿に惹かれるものが徐々に膨らんできたと思います。
内分泌、神経内分泌学者として高名であった、吉村教授の研究室の扉を叩くことが、大学5年生の頃には、私も含め、周囲の了解事項になっていました。
こうして、自らの意志によって将来を選択できたことは、今振り返っても幸せであったと思います。ただ、吉村先生の定年まで2年しかないので、その後については迷いました。当時、吉村教授の一番のライバルであった群馬大学内分泌研究所の黒住一昌教授(故人)の学問への姿勢も極めて峻烈であり、大きな魅力を感じていました。
そこで、恩師の吉村教授に、「群馬の黒住教授の下で勉強してみたい」と話をしました。最大のライバルのところへ行きたいということですから、破門される覚悟でした。実際に、その話をしたら「なにっ!」と絶句されました。しかし、学問の世界のライバルとはすごいもので、じっと考えていた吉村先生は「そうであるならば、丁重な紹介状を書く」といって、黒住教授宛に長文の紹介状を書いてくださり、こうして私は群馬大学へ大学院生として移りました。
8年間、群大で院生、助手を務め、研究所としての土台を作ってもらいました。最後の2年間はフランス国立科学研究所へ留学し、これも憧れの先生のもとで勉強できたことは幸せなことでした。留学が終わって帰国、34歳でした。もともとは医学部の解剖学教室でスタートでしたので、研究所からまた医学部へ戻り、解剖学教室で学生とも接しながら学者、教育者の道をと考えていた時に、京都府立医科大学解剖学の河田光博教授(現名誉教授)から講師として京都に来ないかというお誘いを受けて、「パリのワインから、今度は京都の日本酒か」といけない思いも抱きながら、迷うことなく京都へ移り、それから10年間、研究者としては、実に伸び伸びと健やかな日々を過ごさせてもらいました。河田光博先生という、これまた尊敬すべき大きな人間性を有する師を得たことは大きな財産でした。
このように、私は自分の次の道を選択する際に、先ずは自分の意志で行えたこと、一緒に学ぶ仲間と師に恵まれたこと、自分で選んだ道だから様々な苦労は自身の選択…と受け入れることが出来たと思います。そして、多くの場合、迷った時にはとにかく進んでみる、進まずしてうまくいかないことよりも、進んでみてうまくいかなかったほうが自分としても納得できるという生き方をしてきたと思います。

Q4.先生から受験生や保護者の方へアドバイスをお願いいたします。

医学部は、数ある大学の学部の中でも、学修の目的がはっきりしており、また学力に加えて人間力も必要とされる独特な学問領域だと思います。その中で学ぶためには、夢も必要ですが、現実を乗り越えるための強い意思が必要です。そのためには、まず、医学部を目指す自身としての決心と生き方の哲学が重要だと思います。「なんとなく医学部」、「みんなから進められて医学部」は幸せではありません。一回きりの人生において、自分の生き方、職業を自分で納得して選択することは極めて重要です。受験生は、まずそこをしっかりと考え、保護者の方も自分の子供にあった人生、職業は何かをその子供の特性も考慮に考えてあげてほしいと思います。
次に、医学部はバラ色の生活だけではありません。「こんなはずではなかった」と思うほど、厳しい部分もあります。「よく学び、よく遊び」が実現できるためには「よく学び、よく学び」が当たり前のように要求されます。これもよく理解してください。そして、個を捨てて(個を取りあえず横に置いて)、社会のために尽くす思いがなければ優れた医師にはなれません。そのこともしっかりと意識して医学部を目指すことを考えてほしいと思います。

関連リンク 日本医科大学ホームページ

おざわひとし
小澤一史先生 略歴

略歴
1984年3月 東京慈恵会医科大学卒業
同年4月 同大学解剖学教室助手
1988年5月 群馬大学内分泌研究所形態学部門助手
1992年~1994年 フランス国立科学研究所客員研究員
1995年6月 京都府立医科大学解剖学教室講師
1999年6月 同 助教授
2005年4月より 日本医科大学大学院医学研究科 解剖学・神経生物学分野 大学院教授、現在に至る。

活動
日本解剖学会代議員、第123回日本解剖学会学術集会(2018年)会頭
日本神経内分泌学会理事、日本顕微鏡学会理事、日本組織細胞化学会理事、日本臨床分子形態学会理事

主な著書
トートラ解剖学(丸善出版、共同監訳者)
Big Picture解剖学(丸善出版、代表監訳者)
集中講義 解剖学 (Medical View, 分担執筆)
臨床のための解剖学(メディカル・サイエンス・インターナショナル、分担執筆)
解剖学・発生学 (東京化学同人,共同監訳)
カラーアトラス機能組織学(医歯薬出版、分担執筆)